過去の上演をご覧いただいた方や、京都公演を応援していただく「声」をご紹介していきます。
↓2023年京都公演に向けての応援メッセージ↓(順不同)
『9人の迷える沖縄人』は、2017年に沖縄のアトリエ銘苅ベースで拝見し、そのあと、オンラインで配信された上演も観ました。今回、京都のみんなとこの作品を観れることをとても嬉しく思っています。
私たちは、少なくとも私はずっと、「1945年」を一つの大きな区切りのように捉えて、それに安心して生きてきたのではないか、と思うのです。戦争も平和も、「過去の物語」として消費して、全く当事者意識を持てていなかったように思います。そうじゃないのだと気付かされたことは、大きな衝撃でした。
この作品をきっかけに、沖縄と日本と世界のことを考えたいと思っています。そしてそのことを、京都の仲間と話したりしたいと思っています。
植村純子(劇団衛星 プロデューサー/KAIKA マネージャー)
(C)五島真澄(PUYEY)
年だけ取ってはみたものの、夢はおろか目指すところも見つけられず、しょぼくれている、この国の多くの大人たち。それとは真逆に活きのイイ粋な“おとな”が集まって、よりにもよって演劇をしているのが沖縄現代演劇の雄・劇艶おとな団だ。
その代表作『9人の迷える沖縄人~after’72~』には、同じ沖縄を活動の場とする劇集団から生え抜きの俳優たちが参戦。ロームシアター京都で行う“初関西圏公演”は、「事件」となるに違いない。
1972年、本土復帰前夜の沖縄。「選ぶ権利」を与えられぬまま転換点に直面する人々と、漠然と「今」を生きる私たちとを、演劇という創造(想像)はどう結びつけるのか。
心と頭をフル稼働させる、その心づもりでいざいざ劇場へ!!!
尾上そら(ライター)
『9人の迷える沖縄人』は傑作です。戯曲としても、上演としても傑作です。俳優のみなさんも素晴らしくて、楽しく観劇できると同時に、わたしたち観客が考えつづけ、そしてどこかで自分の想像力や行動や選択を変える可能性をもらうことのできる、いつまでも残る作品です。本作がまだそれほど知られていないとしたら、それは舞台芸術が東京や関西を中心としていて、沖縄の作品が見られることが少ない、そうした歴史的な権力構造に由来するものでしかありません。沖縄で生まれた傑作を京都で鑑賞できる貴重な機会を、どうか逃さず、ぜひ劇場で経験してください。
林立騎(那覇文化芸術劇場なはーと企画制作グループ長)
アトリエ銘苅ベースで『9人の迷える沖縄人』の通し稽古を見ました。
『9人〜』には、ただただ迷っているばかりの人たちが描き出されます。そこに登場する沖縄人が抱えている問題に答えはなく、誰もが正しいことを言って、誰もが間違ったことを述べる。誰も答えを持たないまま、あっちへこっちへ右往左往するような姿は、本土人であるわたしのような人間にも共感できるものでした。けれども、それと同時に本土人が押し付けたこと、利用したことも描かれるから、共感なんていう長閑なことも言ってられない。この作品で描かれる「変わらなさ」は、いったい誰のせいだろう……?
矛盾、混乱、冗語、言いよどみ、あらゆる迷いを持ちながら生きること。絶対的な共感と圧倒的なわかり合えなさを行き来すること。それを描くことは、演劇の役割のひとつであると、わたしは信じています。そして、『9人〜』という作品には、それが詰め込まれていました。
『9人〜』は、優れて批評的に沖縄の現在の姿を描き出している作品です。と同時に、『9人〜』は、優れて演劇の可能性を描いた作品です。
萩原雄太(演出家・かもめマシーン主宰)
ロームシアター京都での公演に向けた通し稽古を拝見しました。
「9人の迷える沖縄人」は「すごく、いい演劇」だと思います。
沖縄の本土復帰を巡って、異なる立場からそれぞれに語られる視点や意見には、首都圏で生まれ育って暮らしている私が「知らなかった」ことが多々ありました。例えば、沖縄-日本-米国というトライアングルの関係で考える視点、とか。
本作の9人が話している事柄について教育やニュース等で表層的に触れてはいても、じゃあ、いざそれについて自分が語ろうとするとき、なぜか「ウッ」と胸がつかえるような感覚とともに
少しの怖さが伴います。そして、その「ウッ」という感覚に圧されるまま失語してしまう。
だから、本作を観る前は、少し緊張して構えていました。でも、実際に通し稽古を観てみたら、失語するのではなく、のびのびと話したくなっていました。
それはきっと、この作品が問いを「突きつける」のではなく、「手渡している」からだと思います。「うーん、わからーん!これ、どう思う~??」みたいな。
この手渡し方ができるのは本当にすごいことだと思います。
そしてこの「すごさ」は、戯曲と、9人が醸す”劇団”としてのグルーヴ感が掛け合わさることで生まれているようにみえます。
「12人の怒れる男」の構造と入れ子構造(劇中劇)を組み合わせた本作は、そのシンプルで明確な構造ゆえか、何重にもいろんなものが立ち上がってみえてくる豊かな作品です。
映画やテレビ・動画と違って、生の演劇と出会えるタイミングってすごく限られます。いま、この作品を見逃すのは、とても惜しいと思う。だから多くの人に観に行って欲しいです。茶飲み話にでも行くような気軽さで。
そして、ロームシアター京都以外の全国各地の劇場にも呼んで欲しい。
私はこの作品を何度も観たいと思っているので。
かもめマシーン・俳優
清水穂奈美
僕は沖縄が好きだ。
海も、空も、空気も、酒も食べ物も人も大好きだ。
美しいなぁと思う。
9人の俳優が楽しそうに演劇をしている。
9人の沖縄人が自分達の事を自分達の事として悩んでいる。
美しいなぁと思う。
僕も日本人として、自分達の事を自分達の事として楽しみながら悩んでいきたい。
伊藤 新(かもめマシーン)
↓2020年 オンライン配信時の応援メッセージ↓ (順不同)
『9人の迷える沖縄人』、2015年の初演の頃は、私も沖縄に住んでいたので、沖縄側から見る観点が強かったような気がします。今は本土に住んでいるので、今回観て、またちょっと違う感想をもちましたが、作品が生まれて5年経ち、4回目の公演ということで、改稿が重ねられて作品が一層育ってきていることを感じています。
味方か敵か、正しいか誤っているか、白か黒か、がはっきりしていれば「分かりやすい」のだけれど、そうスッパリ行かないことが多い。
そうした時わたしたちは「迷う」。
『9人の迷える沖縄人』は、その名の通りの演劇です。
今から遡ること50年足らず、1972年に、沖縄は米軍の占領下から日本に「復帰」したけれど、しかし同時に、沖縄はその約100年前までは琉球王国という一つの国であり、「日本」とは違う王が治め、違う文化が継承されてきていた。だから「復帰」とはいうけれど「帰る場所」がどこか中途半端でもあって、「琉球が独立するのだ」という主張をする人も(現在まで)いますし、それに対して「日本の内部で発展していくべきだ」という主張もあるわけです。
琉球・沖縄の近現代の歴史を、沖縄から目線でみると、「あのときこうなっていたら」という「歴史のif」が、現在まで何本ものビーム光線になって目に刺さってくるまばゆさがあるような気がします。目つぶしを食らって、今がこの今しかないのかどうか、クラッとします。
『9人の迷える沖縄人』が心をうつ理由はいくつかあると思いますが、一つ大きくあると思うのは、1972年に思い描くことができた夢が、現在では既に幻とついえているのを思い知らされるということです。
この作品では劇中劇のかたちをとることで、現代の沖縄から約50年前を見つめ返すという眼差しがあります。それは、別の言い方をすればある種の「答え合わせ」の視線です。
1972年にはこんな未来を期待していた。
あるいは警戒していた。
それが2020年、果たしてどうなったのか。
あれから今までに、変わったこと、変わっていないこと。
・・観客はそれを知っている。
この約50年、沖縄は、日本は、世界はこれでよかったのか、よくなかったのか、それぞれが心のうちで採点しなければなりません。
いま、同じように、私たちは未来を思い描いています。
2020年の世界を知る由もない劇中の登場人物たちと同じく、知る由もない未来に希望を託さざるをえないような葛藤にまみれて、現在の私たちも生きています。
沖縄の来し方を振り返りみながら、この50年、これからの50年、に思い巡らすとき、この葛藤も諸共に引き摺りひっくり返してぺしゃんこにしてしまう現実のむごい力を思い起こさずにはいられません。私たちの未来だって、このくらい根本的に突き崩されることがあったとして何ら不思議ではない。
未来の安寧を望む意志はみんな同じなのに、まるでそのようなこととは無関係のように、様々な出来事が起きて、ぐにゃりと曲がり歪み、抱えきれない葛藤を一人の人間のうちに生んでしまう。
誰も、何も、護られていないし、救われてもいない。
見棄てられてもいない。
私達はそれぞれ、迷えるおのれ自身である。・・この一点から、沖縄とその歴史、そこに生きて死んだ人たち、生きている人たちと、いま接続する。
『9人の迷える沖縄人』は、正しさや誤り、白や黒のスッキリさで、沖縄のことを「分かる」ためだけではない、観る人たちそれぞれの目の前に差し出された糸口なのだと思います。
そして、それは、演劇そのものの魅力であり価値だと思います。
リアルで上演されたらどんな巻き込まれ方をするのだろう、と想像しながら、しかし映像でも吸い込まれました。
ぜひ、いまこのチャンスに皆さんにもご覧いただければと思います。
野村政之
[信州アーツカウンシルゼネラルコーディネーター/全国小劇場ネットワーク(代表)/演劇制作者/ドラマトゥルク]
当山さんはじめ沖縄文化の箱の皆さんの取り組みは、いつも私たちにも大きな励みをいただいています。
本作は、戦後の沖縄の本土復帰を題材として市井に生きる市民の声がリアルにかわされています。リージョナルな設定でありますが、現代にもダイレクトに通じていて、同時に国際的な視野が想起されます。登場する人々からは、ユーモアと希望と悲しみが揺蕩うようです。
この苦難の中、私たちの暮らしを見つめ直すにも、今このお芝居をリモートでみられるのは幸運なことだと思います。
沖縄の皆様も大変なご苦労があると察しますが、応援しております!
お客様もそして演じられる方々もぜひお楽しみください!
あごうさとし[THEATRE E9 KYOTO 芸術監督/京都]
私がこのお芝居を拝見したのは2017年12月2日。オープンしたてのアトリエ銘苅ベースの雰囲気と相まって、沖縄現代演劇の底力を見せつけられた気がしました。現代沖縄の諸問題をダイレクトに落とし込んだ討論の応酬!沖縄について知ってるつもりになっていた己の無学を深く恥じました。お薦めです。目から鱗が落ちます!ごそっと落ちます!今回のオンライン配信は絶好の好機!是非、ご覧ください!本州の北の端から南の同志に熱いエールを送ります!
畑澤聖悟[渡辺源四郎商店 店主/青森]
『12人の怒れる男』のような会議ものの名作は数多くありますが、シチュエーションは一緒ですから、誰が、何について話すのかで、その面白さが決まります。さまざまな世代・立場の沖縄人が本土復帰の是非について議論するこの芝居は、現代を生きる沖縄の演劇人が演じることで、メタ構造を持つ演劇作品としての強さが倍増。今回の発信は、48年という歳月が流れても答えを見出せぬまま、コロナ禍の世界でも変わらずに存在する問いかけの大きさと重さを我々に突きつけることでしょう。
1972年5月15日、本州の北のはずれの小学校も半ドンになり、その深い意味もわからず、無邪気に喜んでいたことを思い出しました。
工藤千夏[うさぎ庵 主宰・渡辺源四郎商店 ドラマターグ/青森]
2017年の沖縄で「9人の迷える沖縄人」を観られた事はとても幸福だったと思っています。「十二人の怒れる男」に代表される議論劇の形式を持ちながら、その議論劇を演じる現代の沖縄人という入れ子構造とフィルターを用いる事でより多面的な議論劇になっています。沖縄県外の人にとって、何となく理解している気になってしまっている沖縄にまつわる問題を浮き彫りにしてくれるこの作品を、全国の人に観てもらいたいと勝手に応援していました。生で上演を観てもらうのが理想ですが、コロナ禍の中、映像配信で逆にそれが叶います。是非ご自宅で気軽にご覧下さい。それでもあなたの中に残る物がある筈です。
この映像配信から将来の全国ツアーに繋がる事を期待しています!
相内唯史[インディペンデントシアター 劇場プロデューサー/大阪]
↓2022年5月 那覇文化芸術劇場なはーと公演時、アンケート/観劇後Twitter投稿より↓
自分の中にあった葛藤が表面化されて突き刺してくるようでした。今日、この作品をみることができてよかったです。今の沖縄で何ができるか、当時を生きた人は何を望んでいて、それが実現できているのか、深く考えたいと思いました。[那覇市/10代]
現実を描写することのむずかしさとそれ以上に大切さ。その後に希望を感じました。[南風原町/40代]
復帰の日を迎える時にこの演劇が上演されることは沖縄の誇りだと思います。これを見てたくさんの人と語ることが、小さな何かを変える1歩になると思います。[宜野湾市/50代]
沖縄という矛盾した島の姿をはっきりとかつ複雑なままに示していて、復帰50年というテーマに演劇というメディアを通してできる、というか演劇というメディアにしかできないカタチで応答していたと思う。とてもよかった。 兼島拓也[沖縄/劇作家]
全部は重なり合わない。水と油にみえるけど、でもどうしても切り分けられない複雑さを、変に前向きな議論にまとめるわけでもなく、耳障りの良い正論でまとめるわけでもなく、複雑なものを複雑なまま描く。これでいいと思う。石垣綾音[沖縄/まちづくりファシリテーター]
私の中にもこの9人全てが同時に存在している。うまく作られた作品だなぁ、と感心しました。私たちはこれからも迷い続けるわけだ、これまで同様に。いや、迷い続けていきましょうよ、皆さん。 松本哲治[沖縄/浦添市長]
(一社)おきなわ芸術文化の箱
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